用賀教会へようこそ。どなたでもお気軽にお越しください。
聖書と讃美歌は教会でお貸しいたします。服装は普段着で構いません。
初めての方は、日曜日の主日礼拝(午前10:30〜)にお越しいただくのがおすすめです。
前奏 ― オルガン曲が流れますので、心を静め式に備えます
招詞 ― 司式者が招きの言葉を朗読します
頌栄 ― 一同で讃美歌を歌います
主の祈り ― 一同で主の祈りを祈ります
讃美歌― 一同で讃美歌を歌います
聖書朗読 ― 司式者が聖書を朗読しますので、お聴きください
祈り― 司式者による祈り
讃美歌― 一同で讃美歌を歌います
説教 ― 牧師がその日の聖書箇所について説き明かします
祈り― 牧師による祈り
讃美歌― 一同で讃美歌を歌います
使徒信条―使徒信条により私たちの信仰を告白します
聖餐式(第一日曜日のみ)
献金―献金を献げます
祈り―信徒による祈り
報告―司式者が報告を行います
讃詠―会衆一同で讃美歌を歌います
派遣の言葉・祝祷―会衆一同が祝福されるように祈ります
後奏―オルガン曲が流れますので、各人心静かに祈ります
用賀教会では、教会員向けに「用賀教会だより」を発行しています。その中に掲載されている「Q & A」をまとめました。
イエス・キリストと結ばれるしるしです。言葉を変えますと、救いのしるしです。生まれながらの人間は、そのままでは神の国に入る(神の救いにあずかる)ことはできません。罪を犯しているからです。神の国に入る、すなわち救われるためには罪の赦しが必要です。その罪の赦しの目に見えるしるしが「洗礼」です。ローマ書6章4節には「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、・・・わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」とあります。また同じ6章2節には「罪に対し死んだわたしたち」とあります。十字架に架かって死んだイエスをキリスト(救い主という意味)として信じる信仰を告白し、洗礼を受ける者はだれでも罪を赦され、神の国に生きることが約束されているのです。主イエスは言われました「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(ヨハネ3章3節)。
今年度から礼拝式順の中に「招きの言葉」と「派遣の言葉」を入れています。礼拝は、神様の招きから始まります。礼拝をドイツ語では「Gottesdienst」と言います。「神の奉仕」,「神の仕え」などの意味を持っています。つまり、礼拝は神様が用意し、人々を招いて仕える、という意味です。礼拝は私たちがささげる行為と思いがちです。確かにそういう側面は強くあります。しかしその場合でも、神様の招きが先にあります。神様はすべての人々をその名を呼んで招いておられる。礼拝はその招きの言葉を聴くところから始まります。そのようにして招かれた礼拝において御言葉と聖餐の恵に与ります。そして、神様がすべての人々を招いておられることを知った者として、それを伝えるために派遣されます。式順にある「派遣の言葉・祝福」という順序は大切です。神様が「共にいてくださる」祝福は、派遣される者に向けられています(マタイ28章16-20節など参照)。私たちキリスト者は、神の家に招かれ、神の家からそれぞれの生活の場への派遣される者です。日々の生活は、神様から遣わされた者として愛と奉仕に生きるのです。このような招きと派遣の連続は、主イエス・キリストの再臨の時まで続くキリスト者の大切な生活リズムです。
はい、根本的に異なります。一般的に「罪」という場合、それは法律を破ったこと、また倫理道徳的に間違った行為を指します。盗みや騙し、殺人などなどです。それらの行動をし、法律の裁きを受けた人を「犯罪者」あるいは「罪人」(ざいにん)と言ったりします。これに対して教会でいう「罪」は、神と人間との関係の中で語られます。すべての人間は神様によって造られ、神様の愛を受け、それに応えて生きるべく造られたと聖書は語っています。しかし人間は自分の造り主であり、そうであるが故に命の源である神様の愛に応えながら生きることを拒み、自らの欲望に従って、それを満たすために生きています。神に背を向けて生きている、このような生き方が「罪」であり、そう生きる人間を「罪人」と言うのです。「罪」と訳されている言葉(旧約のヘブライ語,新約のギリシア語のいずれも)、「的外れ」という意味を持った言葉です。神を愛し、人を愛し、自らを愛する者へと造られた人間が、本来の目的(「的」)から外れてしまっている、この状態が「罪」であると聖書は語っています。
広辞苑第五版では次のように定義されています。「キリスト教で、神に対して罪を悔い、心を改めて霊的生活によみがえる誓いをすること。悔悛」 この定義は少し難しいと思いますが、一つだけ申しますと、広辞苑の定義では、「悔い改め」という言葉は「キリスト教」の用語であるということです。では、キリスト教はこの言葉をどのような意味で用いているのでしょうか。この日本語訳の元になっているギリシャ語は「メタノイア」という言葉です。「心を入れ替え、方向転換をする」という意味です。別の言葉で言うと「立ち帰る」ことです。Q3で述べたように、「罪」は創造主なる神に背を向けて生きることでありますから、そこから方向を変え、神と向き合うこと、それが「悔い改め」です。「悔い改め」は何であるかを主イエスは「放蕩息子」の譬えを通して語っておられます(ルカ15章11-32節)。
キリスト教でいう「救い」とは、神様との交わり(関係)が回復されることです。創世記によると、人間は神様によって、神様に象って(かたどって)、しかも神様との交わりの中で生きるべく造られました。しかし罪を犯すことによって、神様との交わりが絶たれてしまいました。造り主との交わりの断絶はすわなち死を意味します。ルカによる福音書15章にある放蕩息子の物語の中で、放蕩息子が帰ってきたとき、父親は「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」(24節,32節)と言いました。父親の目からすると、父の家を出た時からこの息子は「死んだ」のです。父の許を離れた瞬間から息子は死んだように、罪によって神様との交わりが絶たれた人間も、神様の目からすると「死んでいる」のです。その状態から回復されること、すなわち、命の源である神様の許に再び帰ってくる(繋がる)ことが「救い」です。
まずは、人間は自らの力では救われないことを知ることです。例えば、太平洋のど真ん中に落ちたとします。いくら泳ぎが上手な人であっても自らの力ではそこから抜け出すことはできません。自分で自分を救うことはできないのです。その人が救われる為の唯一の道は、船舶やヘリコプターなど、自分以外の所から助けがくることです。同じく、罪に陥っている人間は自らの力では自分を救うことができません。どんなに善い行いを重ねても、です。救われる唯一の道は、同じとろこに陥っていない、つまり罪に陥っていない方が助けに来ることです。そして、その方が主イエス・キリストです.主イエスが来て救いの手を差し伸べてくださっている。その手に自分を委ねるとき、私たちは罪とそれによってもたらされる死から救われるのです。自分を委ねるとは、主イエスを自分の救い主として信じることです。主イエスを救い主として信じる信仰さえあればどのような人間も救われるのです。
礼拝の献金時、司式者が「『感謝と献身のしるし』として献金をささげましょう」と言います。その言葉の通りです。つまり、献金は神の恵みへの感謝であり、更には自分自身を献げるという信仰の証しです。神様は天地万物をお造りになりました。その中には私たち人間も含まれています。すべての被造物は造り主である神様のものであります。私たちも例外ではありません。「私」という存在そのものは神様のものなのです。特にキリスト者は、造られた存在だけに留まらず、神の独り子イエス・キリストが十字架上でご自分の命をささげるという尊い代価を払って神様に買い取られた存在です(コリント一6章19-20節)。神様のものである「この私」を献げるという信仰の表れが献金であります。また、私のためのイエス様が尊い命を十字架の上で献げてくださったことを感謝し、更には、教会生活ができる恵みが与えられていることを感謝する。これらを目に見える形で表すのは「献金」です。
献金の祈りの時、「御用のためにお使いください」という言葉をお聞きになったことがあるかと思います。この言葉が意味するのは、申し上げるまでもなく、神様の御用のためにお使いください、ということです。では、神様の御用のためにとは、具体的にどういうことでしょうか。「神様の御用」とは、何と言っても「福音を宣べ伝えること」です。この一点のために、教会は存在し、牧師は存在します。献金は、目に見える形としては、牧師の謝儀、建物の維持運営、諸々の会の活動、対外支援などに「お金」として使われます。しかし、教会におけるこれらのすべては専ら神様の福音を伝えるためのものです。その限りにおいては「神様の御用のために」ということになります。
月定献金は、他に「維持献金」と呼ばれることもあります。この言葉の通り、教会の維持・運営のために献げるものです。席上献金の意味は、「感謝と献身のしるし」です。神の恵みに感謝し、神の栄光と宣教の奉仕のために、時間を献げ、賜物を献げ、人生を献げる。その「しるし」が主日礼拝の席上献金です。席上献金や月定献金は決して礼金でも賽銭でもありません。ましてや会費でもカンパでもありません。広い意味で教会のすべての献金は「感謝と献身のしるし」なのです。